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東京地方裁判所 昭和51年(ワ)4888号 判決 1982年10月18日

原告

海老みのり

右訴訟代理人

谷口亮二

右同

芳永克彦

被告

石原明

右訴訟代理人

藤井暹

右訴訟復代理人

橋本正勝

主文

一  被告は、原告に対し、金一三六七万〇五一七円及びこれに対する昭和五六年二月二四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の負担としその余は被告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金二六九七万九〇〇〇円及びこれに対する昭和五六年二月二四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  原告の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告は、訴外海老勇三を父とし同海老とき江を母とする二女として、昭和三七年五月二七日に出生した。被告は、肩書住所地において「石原整形外科医院」(以下「被告医院」という。)を開業している医師である。

2  原告の受傷

原告は、昭和四八年一〇月二八日午後五時ころ、自宅近くの株式会社厚木体操センターにおいてトランポリンの練習中、右肘関節を脱臼する怪我をした。

3  本件診療契約の締結

原告の両親である訴外海老勇三・同海老とき江(以下それぞれ「勇三」・「とき江」という。)は昭和四八年一〇月二九日、整形外科医である被告に対し、原告の右傷に関する診療を依頼し、被告はこれを承諾した。よつて、ここに原告は親権者である勇三・とき江を法定代理人として、被告との間に、同日、原告の右受傷に関する診療契約(以下「本件診療契約」という。)を締結したものである。

<中略>

7 被告の責任

本件診療契約に基づき、被告は、善良な管理者の注意義務のもとに、整形外科医としての専門の医学上の知識と技術をもつて、原告の負傷の部位、性格を検査診断し、適切な治療を施す義務を有していたが、被告は、次のとおり、右義務に違反して原告に前記後遺症を発生させた。

すなわち、肘関節の外傷性脱臼後には、外傷性化骨性筋炎がしばしば生じ、これに対し屈伸マッサージを加えることは禁忌とされている。化骨性筋炎はその発生初期においては、局所の腫脹、運動痛が残つていて、X線学的に境界不鮮明な雲状の石灰化陰影がみられる。したがつて、肘関節の外傷性脱臼の患者を診断・治療する整形外科医としては、レントゲン撮影をするなどして右化骨性筋炎の出現に注意し、右疾患が認められたら、それを更に助長するような屈伸マッサージ(他動的伸展矯正)をすべきではないところ、昭和四八年一一月二〇日、被告が原告の右肘を撮影したレントゲン写真には、右肘部屈側に境界不鮮明な雲状の石灰沈着が認められたのであるから、まさに右化骨性筋炎であると診断すべきであつたにもかかわらず、被告は右レントゲン像は剥離骨片が化骨したものであると考え、軟骨剥離という誤まつた診断をなし、右誤診に基づき、前同日から、原告が転院を決意する昭和四九年二月一四日までの間、昭和四八年一二月二五日に一度レントゲン写真を撮影し、昭和四九年一月二二日に患部を診察しただけで、漫然と右化骨性筋炎においては禁忌とされている屈伸マッサージを施行し続けた結果、原告の化骨性筋炎の進行を助長するとともに、その病状を悪化させる一方、原告に対し離断性骨軟骨炎を生じさせ、よつて原告の右肘関節の機能障害を発生させ、更には前記後遺症に至らしめた。

<中略>

三  被告の主張

1  本件後遺症の原因となつた化骨性筋炎は、昭和四九年三月一日、北里大学病院において行われた手術により生じたものであつて、被告が治療中の原告の疾患は、次にのべるとおり化骨性筋炎ではなく、離断性骨軟骨炎であつた。

従つて被告が治療中に化骨性筋炎が発生していたことを前提として被告の責任を問題にする原告の本訴請求は理由がない。

(1) 被告が昭和四八年一一月二〇日及び同年一二月二五日、原告の右肘を撮影したレントゲン写真には化骨性筋炎を疑わしめる映像は認められなかつた。

(2) 化骨性筋炎とは筋組織における化骨現象であつて、職業上特別の筋肉に外傷が習慣的に反復作用した結果起きるものであるところ、被告が原告に実施したマッサージ治療は、一日五分程度のもので、かつその外力の程度においても右職業上の反復作用とは格別の差があり、本件マッサージ治療の程度の反復作用により化骨性筋炎が起こることは考えられず、北里大学病院において、昭和四九年三月一日に行われた手術により摘出されたのは、筋肉内遊離骨片のみである。

2  被告が原告に実施した徒手矯正術(マッサージ治療)は、次にのべるとおり本件の場合適切な治療処置である。

レントゲン写真により、離断性骨軟骨炎を確認しても、本症状は自然治癒の可能性もあるから、直ちに摘出手術を行うべきでなく、筋委縮、関節攣縮を防ぐため、関節の屈伸運動等を行いながら数か月間経過観察をし、関節の屈伸能力の回復が停止し、かつレントゲン写真によつて壊死骨が鮮明に認められるのを待ち、しかるのち、自然治癒の可能性がなく、しかも関節運動に支障のある場合初めて摘出手術あるいは関節形成術を行うものであり、仮に右摘出手術の時期を誤まり、骨化初期に手術的除去を行うと、骨化機転を増大させることとなる。

被告が、レントゲン写真により原告の右肘に離断性骨軟骨炎を認めたのは、昭和四八年一二月二五日であるが、その際壊死骨の映像は未だ鮮明ではなく、しかもマッサージ治療によつて、右肘の屈伸能力は漸次回復の傾向にあつた。したがつて、被告がその後も肘関節部の筋萎縮等を防ぐためマッサージ治療を継続しながら、経過観察をしていたのは、離断性骨軟骨炎の治療方法として正当である。

3  原告の本件後遺症は、次にのべるとおり、北里大学病院における昭和四九年三月一日の摘出手術に起因するものであり、被告の治療行為との間に法律上何ら相当因果関係は認められない。すなわち、北里大学病院整形外科は、原告の骨折が脱臼骨折であることを看過し、化骨性筋炎である旨誤診し、かつ、離断性骨軟骨炎を確認しても、右症状は自然治癒の可能性もあるので直ちに摘出手術を行うべきではなく、筋萎縮、関節攣縮を防ぐため、関節の屈伸運動等を行いながら数か月間経過を観察し、手術を行わなければ関節機能障害の回復が到底不可能であることを確認するとともに、摘出手術によつて肘関節機能回復の可能性が十分に期待しうる場合においてのみ手術を実施すべきであるのに、これを無視して、尚早無造作に原告の右肘関節患部に切開手術を施し、前記のとおり、肘頭部の切除によつて肘頭部の骨増殖を、関節のうの横切開によつて化骨性筋炎をそれぞれ発現させ、原告に対しかえつて回復し難い右肘関節機能の後遺症を与えたものであつて、原告主張の後遺症は、それが存するとしても、その結果のものである。

<以下、事実省略>

理由

一1  請求原因1の事実(当事者)は、当事者間に争いがない。

2  請求原因2の事実(原告の受傷)は、証人海老とき江の証言及び原告本人尋問の結果によりこれを認めることができ<る>。

3  請求原因3の事実(本件診療契約の締結)は、当事者間に争いがない。

二被告の診療の経過について

<証拠>並びに右1の事実を総合すると次の事実が認められる。

(一)  被告は、初診時である昭和四八年一〇月二九日、原告及び母のとき江から、原告の右肘の怪我をしたときの状況を聴きながら患部の診療をしたところ、右肘の脱臼はすでに整復されていた。そしてレントゲン撮影をしたところレントゲン写真でははつきりとした骨折は認められなかつたが、右肘の腫脹が著明で外側果に圧痛が認められたので臨床上骨折との診断をした。しかし原告及びとき江に対しては、「骨折は見当たらず、少々ひびが入つている程度だから、一か月位ギプスをしてから、二か月位マッサージ治療をすれば治る」旨説明し、原告の右肘をほぼ九〇度に曲げた状態でギプスにより固定する治療をした。

(二)  初診時から約一か月後の同年一一月二〇日、被告は、原告のギプスを取りはずしたうえ、第二回目のレントゲン撮影をなしたところ、右肘頭部に陰影と関節前面に淡い化骨像がみられたので、これについて軟骨剥離と診断し、ギプス固定による右肘関節の拘縮の進行を阻止するための後療法として、温熱療法とマッサージ治療(徒手矯正術)を施すべく、その旨原告及びとき江に説明し、その日から被告医院のマッサージ担当者である石井輝基により右治療が行われるようになつた。右治療は、まず患部の右肘に対し、五分位温熱療法をなした後、五分ないし一〇分位右肘の屈伸を主とする徒手矯正術を内容とするものであるところ、最初の頃の徒手矯正術はあまり力を入れずになされていた。

(三)  しかしながら、右治療によつても、原告の右肘の可動性がギプス固定時に比べ快方に向かう気配がみられなかつたため、右治療を開始して約一か月位経つた頃から、力を入れた屈伸マッサージ(徒手矯正術)がなされるようになつた。しかるに、原告の右肘は依然快方に向かわず、それを心配したとき江は、マッサージ担当者の石井輝基に相談した。同人は原告に対して、被告の再診察を受けるよう勧めたので、同年一二月二五日、とき江は被告に再診察を依頼した。そこで被告は、第三回目のレントゲン撮影をしたところ、右のレントゲン写真には、剥離した骨片が写つていたので、被告は、数個月の経過をみたうえで場合によつてはこの骨片を除去すべきものと考えたが、原告にも、マッサージ担当の石井輝基に対しても格別の所見は述べず指示もしなかつた。そして原告は、その数日後、石井輝基より、「レントゲン写真に異常がないからこのままマッサージを続ける。」旨告げられ、その後は術者である石井輝基がその体重を利用するなどして、従前より一層力を入れた強い徒手矯正術(以下「強い徒手矯正術」という。)が施されることになつた。この頃より、原告は、このような強い徒手矯正術からくる痛みに耐えかねて泣き、これを受けることを嫌がるようになつた。

(四)  昭和四九年一月下旬になつても、原告の右肘は一向に回復しなかつたので、とき江はさらに精密検査をしてくれるよう被告に頼んだが、石井輝基からの異常ない旨の説明があるのみで、被告からの説明はないまま、同年二月一四日までほぼ毎日、右のような強い徒手矯正術が加え続けられた。

<中略>

三転院後の診療経過について

<証拠>によれば、次の事実が認められる。

勇三ととき江は、原告の右肘が回復に向かわないため被告の治療に疑問を抱き、知合いの木原医師に相談した後、昭和四九年二月一六日、北里大学病院整形外科(以下「北里大学病院」という。)に原告を連れて行き、診療を受けさせた。同病院におけるレントゲン撮影及び空気注入による右肘関節造影の結果、関節はかなり強く荒廃しているほか、前方関節包もしくは滑膜内に骨化片が存在し、上腕骨小頭関節面に下部骨部から浮いた軟骨片剥離の如き像があることが判明した。そして関節包などの軟部骨化は化骨性筋炎、関節面の剥離像は離断性骨軟骨炎と診断された。手術の適応について、整形外科カンファレンスにおいて種々討議の結果、肘の外傷性脱臼後にくる関節軟部組織の石灰化は、レントゲン線上既に境界明瞭な骨化像を呈していて成熟期にあるものと判断され、また、関節面にみられる剥離骨折は外傷後既に四か月を経過しており、もはや治癒の傾向なく、このまま放置すれば一層関節機能が強く障害されてゆくことが必至であると認められたところから、荒廃した関節内に存在するであろう瘢痕(線維組織)その他の障害物を多少とも清掃する目的をもつて手術を行うことが決定された。この決定に基づき、同年三月一日真角昭吾助教授を術者とし、糸満、余両医師を助手とする手術が行われた。右の手術は、北里大学病院の手術記録によると、次のとおり行われたものである。

(前略)「①上記により外側より関節を開くと、上腕骨小頭関節面は一×2CM大剥離して関節内に遊離する。→之を摘出す。②次に上腕外側で腕橈骨筋と上腕三頭筋の間を剥して肘頭窩に至る。この部には仮骨様組織性組織が充満、之を鋭匙にて除くも肘の伸展不十分、従つて肘頭の一部を切除する。これにても伸展は尚不充分である。③原因は伸側にあるのではなく、屈側の短縮にあることが明となつた。屈側の関節嚢を横切する。非常に肥厚している。関節外前面に硬化せる硬い組織をふれる。恐らく靱帯か腱の一部と思われる。之を完全に切除する。しかし肘の伸展は尚不十分である。④肘完全伸展不充分の原因は関節前方の関節のう、靱帯、筋腱などすべてのコンポーネントに基くものであろう。⑤ドレーンを挿入して切開部をゆるく縫合し、術を終る。」

そして右の手術によつて切除された組織標本の病理組織検査報告書によれば関節部の剥離部は「軟骨片」で、「骨皮質への移行部を有する硝子軟骨片と滑液膜の付着した軟骨片」であり、「滑液膜には部分的な毛細血管の増生と線維化が見られ、」関節包の骨化部は、「髄腔が線維組織で充填された骨片と、コラーゲン線維の束に富む線維組織(滑膜か?)」であつた。しかし、右手術によるも、退院時である同月二〇日における原告の右肘の可動性は、屈曲四五度、伸展八〇度、可動域三五度、最終診察時の昭和五〇年七月一八日におけるそれは、屈曲八〇度、伸展一三〇度、可動域五〇度であり、右肘機能の特段の改善はみられなかつた。

四原告の後遺症について

<証拠>によれば次の事実が認められる。

原告の右肘は、昭和五六年二月二日現在、伸展六〇度、屈曲九〇度、可動範囲三〇度であり、前腕の内旋は、正常な状態と比べ約二分の一の制限がみられるのに対し、健側の左肘が、伸展+一〇度、屈曲一四五度、可動範囲一五五度であり、かつ、前腕の内外旋は正常な状態である。かような原告の右肘関節の機能障害は、今後肘関節形成手術によつてその可動性を回復しうる可能性があるものの、右手術は、成長期の終了する時期まで行うべきでなく、また右手術によつても肘関節機能の完全な回復は不可能である。したがつて、その後今日に至るも、原告の右肘は前記のとおりの機能障害を残す状態のままである。さらに、原告の右肘外側部には、北里大学病院における前記手術によつて長さ約12.5センチメートルにわたる手術痕が残つている。

五被告の責任

被告は、前記当事者間に争いのない本件診療契約に基づき、善良な管理者の注意義務のもとに整形外科医としての専門の医学上の知識と技術をもつて原告の負傷の部位、性格を検査診断し適切な治療を施す義務がある。そこで被告の右義務違反の存否について検討する。

1  <証拠>と鑑定の結果を総合すれば、次の事実が認められる。

原告のギプスを除去した昭和四八年一一月二〇日に被告撮影にかかる原告の右肘のレントゲン写真によれば、右肘部屈側に境界不鮮明な雲状の石灰沈着が認識された(証人山本真の証人尋問調書添付図①において同証人が、赤色ペンで書き示した部分及び被告本人尋問調書添付の乙第三号証の一と題する図において、被告本人が赤色ペンで②と書き示した部分)が、外傷性化骨性筋炎の初期の段階におけるレントゲン像でも、境界不鮮明で雲状の石灰沈着がみられる。臨床上、肘関節の高度の運動障害や時には完全強直をみる外傷性化骨性筋炎は、肘関節の外傷性脱臼後にしばしば生じ易いものであり、したがつて、整形外科医としては、右化骨性筋炎の出現にもつと注意しなければならないのであつて、その趣旨は、整形外科学の教科書にも指摘されているところである。そして診断に当たる整形外科医は、そのために、肘関節のレントゲン撮影をし、化骨性筋炎の初期の特徴である境界不鮮明な雲状の石灰沈着がレントゲン像にあらわれるかどうかに注意するとともに、これがあらわれたときには、更にその後のレントゲン写真撮影により、その推移を追跡して知見を得るようつとめるべきであるところ、その後昭和四八年一二月二五日に被告が撮影した原告の患部レントゲン写真中には、前記昭和四八年一一月二〇日の被告撮影に係るレントゲン写真中右肘屈側の境界不鮮明な雲状の石灰沈着が認識されたのと同じ位置に遊離した骨片像が写つた。原告の右肘は、前記認定のとおり、昭和四八年一〇月二八日に外傷性脱臼を起こしたもので、被告は原告の右受傷に至る経緯を原告から初診の際に聴取し、かつ、自らの診察によつてもこれを知つていた。

右認定の事実によれば、被告としては、原告の患部に外傷性化骨性筋炎が発生していることの可能性に十分な注意を払い、一定の期間ごとに何度か右患部のレントゲン写真を撮影するなどして自ら慎重に経過を観察し、正確な知見を得るようつとめるとともに、患部のレントゲン写真にあらわれた骨片像の正確な所在個所及びその発生の原因について検討を行い、場合によつては他の整形外科医あるいは関係専門医療機関の意見を徴するなどして、判断に過誤なきを期すべきであつたのである。

しかるに、前掲各証拠によれば、原告は、昭和四八年一一月二〇日のレントゲン写真を被告において撮影した当時、化骨性筋炎の罹患を疑うべき状況にあつたもので、被告はその兆候を疑うに足りるレントゲン写真を入手していたのに、この点に留意せず、その後昭和四八年一二月二五日撮影のレントゲン写真を入手しても脱臼の際に伴つた骨折による剥離骨片があると考えて軟骨剥離と診断し、前示の石井輝基による徒手矯正術を実施させた。そして、被告は、その後本訴の提起後、各レントゲン写真で得られた右骨片像は、離断性骨軟骨炎に伴う剥離骨折によるものであると考えるに至つていることが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

被告は、化骨性筋炎は存在しなかつた旨を主張するけれども、被告本人尋問の結果中、被告の右主張に沿う部分は、前記各証拠に照らし採用できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

右によれば被告は、原告が外傷性化骨性筋炎に罹患していたにもかかわらず、前記の決意を欠いた過失により、原告の罹患していた右の疾病を見落したものといわなければならない。

もつとも、<証拠>及び鑑定の結果によれば、昭和四九年二月一六日の時点で、原告の右肘関節の上腕骨小頭関節面や尺骨関節面の軟骨下骨質には不整破壊像があり、原告が離断性骨軟骨炎にも罹患していたことが認められるが、被告が原告の右肘を昭和四八年一一月二〇日及び同年一二月二五日に撮影した各レントゲン写真(前記乙第三号証の一及び二)には、右箇所に異常の認められなかつたことが明らかであるから、前記昭和四八年一二月二五日のレントゲン写真が撮影された時点において、原告が離断性骨軟骨炎に罹患していたものとはいいがたい。

2  原告の後遺症の原因について

<証拠>並びに鑑定の結果によれば、肘関節の外傷性脱臼後の外傷性化骨性筋炎において、関節運動を強要すれば、さらに化骨現象を助長するのであるから、肘関節の他動運動、強力な伸展矯正は避けなければならず、化骨の積極的形成期における徒手矯正術の実施は禁忌であることが認められ、右認定を左右すべき証拠はない。しかるに、被告において、ギプスを取りはずした昭和四八年一一月二〇から原告が転医するに至る昭和四九年二月一四日までの間、外傷性化骨性筋炎に罹つていた原告の右肘に対し連日のように化骨性筋炎に対しては禁忌とされる右徒手矯正術とりわけ後には強い徒手矯正術を施していたことは前記認定のとおりである。右の事実によれば、原告の右肘における化骨性筋炎とこれに伴う病状が、被告の前記過失による見落しとこれに基づく前記認定の徒手矯正術の、ほぼ三か月近い間の実施によつて、更に助長され、増悪していつたことは推認に難くないところであり、この推認を左右するに足りる証拠は何もない。したがつて、原告が、北里大学病院において、前記認定の手術を受けた昭和四九年三月一日の時点においては、この助長され増悪した後の右肘部化骨性筋炎とこれに併発していた離断性骨軟骨炎が併存する状況のもとに、右肘患部の荒廃に対処するためには現時点をもつて手術適応の時とする、と判断した同病院の前記整形外科医師による手術が行われたものというべく、治療手段としての手術の術式、範囲、程度等は、特段の事情のない以上、病状が重篤であればある程高度、大規模、困難となり、予後もまた楽観し得ないこととならざるを得ないのが一般であるから、原告の受けた右手術の結果たる後遺症と、被告の前記過失による見落しとこれに基づく前記認定の徒手矯正術の実施との間には法律上いわゆる相当因果関係があるものといわなければならない。

なお、原告は、被告の前記見落しとこれに基づく徒手矯正術の実施のために、原告に前記認定の離断性骨軟骨炎の併発をみた旨主張する。

なるほど、原告の患部に対する前記認定のような強力な徒手矯正術の実施が、患部の荒廃を促進するであろうことは考えられないことではないが、<証拠>によれば、由来離断性骨軟骨炎の発生病理にはいまだ不明の点が多く、急激な一回の外傷を主原因とみなすとの学説が存在することが認められ、更にすすんで、本件の場合、被告による前記認定の徒手矯正術の実施が、原告における前記離断性骨軟骨炎併発の原因となつたことを肯認するのに十分な証拠はない。

また、被告は、原告の本件後遺症は、北里大学病院における手術に起因するもので、被告の治療行為に起因するものではない旨主張する。

なるほど、鑑定の結果によれば、本件の鑑定に当たつた医師は、本件は、化骨性筋炎と離断性骨軟骨炎とが合併しているので、手術の適応を決めるに当たつては、整形外科医の間において意見がわかれるところであろうとし、化骨性筋炎については、化骨が小さく、その推移を観察してもよいと考えられるが、離断性骨軟骨炎については離断した骨軟骨片を手術的に摘出することは妥当である旨の意見を述べていることが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。しかし、さればといつて、被告の過失による見落しとこれに基づく徒手矯正術の実施による症状の増悪を背景とする北里大学病院における前記手術適応についての判断が失当であつたものとすべき特段の事情を認めるに足りる証拠もない本件においては、右の被告の行為と、北里大学病院における手術を媒介とする本件後遺症との間の因果関係はこれを否定できないものといわざるを得ない。

更に被告は、北里大学病院における手術後における骨増殖が、本件後遺症の原因である旨主張しており、<証拠>によれば、北里大学病院における手術後原告の肘頭部に予想外の骨増殖があつて、肘関節部の伸展を阻害するに至り、関節機能の可動域は従前に比してかなり狭くなるなど関節の機能それ自体は後退し、その限りにおいて手術は奏功してはいない結果となつていることが認められるけれども、<証拠>によれば、前記認定のとおり、手術前既にかなり強い関節の荒廃がみられ、また手術の時点において既に関接伸長不十分の原因は、関節前方の関節のう、靱帯、筋、腱などすべてのコンポーネントに基づくものであろうとされているなど、手術直前の原告の関節部には全体にわたつて相当な問題の存したことが窺えるところからみれば、右の北里大学病院での手術がなくても、手術痕はともかく、原告の肘関節の機能不全が改善されたかどうかは疑問であり、まして被告の前記認定のとおりの徒手矯正術が実施され続けていたとすれば、右の原告の患部の悪化は必至であつた(右手術が行われず、かつ、被告の右徒手矯正術もその後中止されていたとしても、前記の事実関係のもとにおいては、それまで進行してきた原告の肘関節の病状及び機能障害に格別の改善が得られたかどうかは、著しく疑わしい。)ものとみるほかないから、本件後遺症については、北里大学病院における手術も一因をなしているとみる余地が全くないとはいえないとしても、さればといつて、原告の前記過失による見落しとこれに基づく徒手矯正術の実施との間の因果関係の存在を否定することはできない。

3  以上のとおりであるから、被告には、前示義務の違反があり、本件診療契約に基づく債務不履行の責任を負わなければならない。

六原告の損害

1  逸失利益

原告が、昭和五六年二月二日現在満一八歳の女子であることは当事者間に争いがなく、また、<証拠>によれば、同日現在、原告には本件後遺症以外何らの身体的疾患がなく、健康な高校生であることが認められるから、原告は、その高校卒業時である一八歳から六七歳までの四九年間、稼働が可能であると推認することができる。

ところで、その成立、存在及び内容が当裁判所に顕著ないわゆる賃金センサス(昭和五四年度)によれば、同年における全産業女子労働者の新制高校卒の年間給与額は金一七九万二一〇〇円であることが認められ、昭和五五年、同五六年の二年間で労働者の給与額が合計一〇パーセント以上上昇していることは公知の事実であるから、昭和五六年度における年間給与額は金一九七万円一三一〇円以上と推認される。

次に、原告の本件後遺症は前記認定のとおりであり、右後遺症は、自動車損害賠償保障法施行令別表の第一〇級の一〇「一上肢の三大関節中の一関節の機能に著しい障害を残すもの」に相当するものと認められるところ(この点に関し、原告は右別表の第八級の六に相当する旨主張するが本件全証拠によるもこれを認めるに足りない。)、右後遺障害による労働能力喪失率は二七パーセントであるから、原告は得べかりし収入の二七パーセントを喪失したものというべきである。

以上について、新ライプニッツ方式によつて年五パーセントの割合による中間利息を控除すると、原告の逸失利益は金九六七万〇五一七円となる。

197万1310(円)×0.27×18.169=967万0517(円)

なお、原告は、女子が通常の労働に従事しながら、合わせて家事労働にも従事することは通例であるから、これも金銭的評価を受けるべきであり、したがつて、逸失利益の算定につき、右の点を考慮するのが相当である旨主張する。しかし、現在における我が国においては、女子が、いわゆる通常の労働に従事しながら、同時にこれと合わせて、更に金銭的評価を受けるべき家事労働に従事することが原告主張のように通例であるとはいまだ考え難いのみならず、本件において原告が将来右のいわゆる通常の労働に従事するとともに、同時にこれと合わせて更に金銭的評価を受けるべき家事労働に従事することを首肯するに足りる特段の事情を認めるべき証拠はないうえ、原告がこれに従事する場合においても、原告主張のとおりの評価算定をなすべきものとする根拠も明らかではない。更にその原因が不法行為であれ、債務不履行であれ、本質的には、その発生した損害の公平な分担を志向する損害賠償制度の本旨をも考え併わせると、原告の右主張は、これを採用し得ないものである。

2  慰藉料

<証拠>によれば、原告は、身体の枢要部位の一つである右肘に受けた本件後遺症によつて、日常の起居動作にわたり著しく制約を受けた状況にあるばかりか、勉学ないし仕事の面で大きな不利益を被るとともに未婚の若い女性として、相当の精神的苦痛を受けていることが認められるほか今後就職、結婚等についても大きなハンディキャップを負わされる可能性が存することを推認できる。右認定を左右するに足りる証拠はない。

しかし、原告の本件後遺症の発生と、前記認定の被告の過失による見落し及びこれに基づく徒手矯正術との間の因果関係が否定できないにもせよ、同時にまた、原告の右肘に生じている手術痕それ自体は、前記認定の北里大学病院における手術を直接の原因とするものであること、前記認定のとおり、手術適応の時期ついては、整形外科医により見解のわかれるところであろうとする意見のあること、前記認定のとおり、北里大学病院における手術時には、既に原告の右肘自体が化骨性筋炎と離断性骨軟骨炎に罹患していたものであるが、鑑定の結果によれば、右両疾患中の前者は外傷性化骨性筋炎であつて、昭和四八年一〇月二八日の外傷性脱臼によるものと認められ、また、後者については、前示のとおり、被告の右行為との間に因果関係の存することが明らかではないから、いずれも罹患それ自体について被告の責めを問うことはできないことを併せ考えると、原告としてもその被る精神的苦痛のすべてを被告に慰藉されるべきものとするのは相当ではなく、その他本件にあらわれた一切の事情をも併わせ考慮し、原告の精神的苦痛は、被告との関係において、被告から金二〇〇万円の支払を受けることによつて慰藉されるべきものとするのが相当である。<以下省略>

(仙田富士夫 日野忠和 黒岩巳敏)

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